徳川秀忠、関ヶ原への途上で小諸城に逗留

画像の石は、徳川秀忠が関ヶ原合戦に向かう途中で小諸城にて腰をおろしたと伝えられているもので、
「憩石(いこいいし)」と呼ばれています。小諸城址懐古園の三の門近くにあります。

風雲関ヶ原

 慶長5年(1600年)風雲急を告げる関ヶ原に集結すべく、徳川軍は大軍を移動させていました。
家康の率いる軍勢は東海道を経由、秀忠の率いる軍は宇都宮を出発し中山道を西進したのです。
 秀忠軍は総勢38,000余、本多正信を軍奉行とし、主な武将は、榊原康政、大久保忠隣、酒井家次、本多忠政、牧野康成・忠成父子、石川康政、仙石忠俊らです。
碓氷峠を越えて9月2日には小諸城に着陣しました。その折りに逗留したのが、当時城内に位置した曹洞宗の禅寺、海應院です。

海應院については当店のコラム「コモロスミレのふるさと海應院」をご覧ください。

海應院本堂
現在の海應院

和睦決裂!そして上田城攻め

 秀忠軍は、真田昌幸が支配する上田を支障なく通過し、諏訪から木曽路を通り、美濃へ向かって家康軍と合流したいところでありました。
そこで秀忠は、自軍に従軍していた昌幸の長男・真田信之と、信之の正室の兄・本多忠政の両人を軍使として真田昌幸との和睦工作を命じ、上田城へ向かわせました。
 9月3日にこの両人は、上田城外の信濃国分寺で昌幸と会見し、昌幸に城明け渡しを説得しました。昌幸も一度は降伏して頭を剃ると申し出たのでしたがこれは籠城の為の時間稼ぎだったのです。

 秀忠は昌幸の引き延ばし作戦に乗せられていたことに激怒し、上田城攻めに踏み切りました。総軍を率いて小諸から出陣し、上田の東北にある砥石城(かつてここを守る村上氏に武田信玄が敗北した砥石崩れで有名ですね)を落とし、さらに神川を渡り染谷台に本陣を進めました。
 9月6日、双方の偵察隊の小競り合いがきっかけで、徳川勢の一隊が制止もきかず我先にと上田城の城門へ押し寄せました。
(この戦闘の中に当店の遠いご先祖が加わっていました。のちの江戸時代になって転封により小諸藩へおさまり幕末を迎えるのですが、当時の藩士一同は「あの小諸か!」と不思議な縁を感じたことでしょう。)

 さて、待ち構えていた真田兵は一斉に鉄砲の火ぶたを切り、秀忠軍が浮足立ったところをゲリラ戦法でさんざんに攻撃したので秀忠軍は大敗を喫することとなってしまったのです。
 秀忠軍38,000の軍勢に対し真田方はわずか2,500と、数の上では問題にならない状況だったのですが、敵を城壁のそばまでおびき寄せ城中から狙撃し、敵のひるむや否や出撃するという真田軍の戦法に秀忠軍は兵を大きく浪費するのみで、上田城を攻略することができませんでした。

秀忠の退却と家康の叱責

 家康から督促の使者が来たこともあり、ついに秀忠は上田攻めをあきらめ小諸城を9月11日に出て、ようやく関ヶ原へ向かいます。武石、和田の上田領を避け、雨境峠から大門峠を経て諏訪から塩尻、木曽福島を通り、17日木曽の妻籠宿に着きましたが、遅かりしこの宿で秀忠は東軍大勝利という関ヶ原の報に接したのでした。

 関ヶ原の合戦に間に合わなかった秀忠に対して家康は大立腹であり、当分の間秀忠の面会を許されなかったとのことでした。
 第二次上田合戦による秀忠軍の損害については諸説ありますが、関ヶ原へ遅参させた真田昌幸の知略は成功したと言えるでしょう。